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「…また、失敗してしまった…」
宮ノ杜物産に内定をもらった研修生のはるは屋上のドア横でひざを抱えていた。伝票の入力ミスはいうまでもなく、お茶をいれればお客様の目の前でこぼし、応接室の掃除をすれば壺をを割る。先輩のたえの呆れ顔が今も目の前に浮かぶ。
「…あんたが、なんでうちの内定とれたのかわかんない」
つきはなすようなたえの声。
思い出すと涙がにじんでくる。
「春からOLになってがんばろうって思ってたけど仕事するって私に向いてないのかも」
そんな弱気な気持ちにからめとられそうになる。
暦では3月になっても春はまだ遠い。日が落ちるとさすがに寒く、体が冷え切ってしまった。もうこの時間ならロッカールームは人が少ないだろう。帰ろうかと思ったとき、屋上の扉をあけて背の高い男性がやってきた。きちっと固めた髪に眼鏡。スーツが似合う凛とした雰囲気。男性は携帯で誰かと話しているようだ。屋上を抜ける強い風が前髪を崩して揺らす。はるは目を奪われていた。
「…ああ、ああ、わかっている。すまない、デュッセルドルフからの報告待ちでな。やす田には少し遅れる…いや、主賓といわれてもだな、誕生会という年でもないしな…ああ、とにかく先ににやっていてくれ、紀夫。聡子さんにもよろしくな」
聞くともなしに聞いてしまったけど、誕生日にも残業なんて。この人にとって仕事ってそんなに大切なものなんだ…。はるはまだ研修でたいしたことしていないのにこんなにへこんでいる自分が恥ずかしくなる。
それにしても、この男性が振り返って帰ろうとしたら、間違いなく自分は聞こえている位置のドア横にひざをかかえていて、これは、いったい、どうやって退場したらいいのかな、など考えをめぐらそうとした瞬間。
「…っくしゅ!!」
はるは大きなくしゃみをこらえ切れなかった。ぎくっとして男性が振り返る。
「わ、す、すみません、聞くつもりはなかったんですけどっ!あの!私、し、失礼します!!」
あわてて言い訳をして、ドアを開けて階段を下り………るはずだった。冷え切った足がもつれて、踊り場まで転げ落ちてしまった。
「おい、大丈夫か!?」
男性が駆け寄ってくる。私、なんて鈍くさいんだろう。恥ずかしいことこの上ない。
「ふぇ、だ、い、じょぶれふ…」
ああ、なんて間の抜けた声しかでないんだろう。
「膝をすりむいてるな。立てるか?」
差し伸べられた手は暖かい。
「冷たい手だな、どのくらい屋上にいたんだ。あまり遅くまでいると警備がかかってロックされるぞ?」
男性の手がぐいと引き上げてくれて立とうとすると、足首に強烈な痛みが走る。
「捻ったか?…しかたないな、エレベーターまで運んでやる」
「いいえいえいえいえ、そこまでしていただくわけには!!」
「…歩いて帰れるのか?」
やや冷たいまなざしで見下ろされる。
「すみません、ありがとうございます」
ふわ、と足元が浮き、抱えられる。まさかの、お姫様抱っこ。はるが遠慮して体を離そうとすると、しっかりつかまっていろ、と低い声で諭された。普段いるフロアまで運ばれ、給湯室の椅子におろしてくれた。大体帰ってしまい、人がいない。男性は、給湯室の棚の救急箱からばんそうことシップをとりだして応急処置をしてくれた。
「ありがとうございます、こんなにしていただいて申し訳ないです」
「…それにしても、あんなところで何をしていた。ずいぶん長い時間いたようだが」
「研修で入ったんですけど、失敗ばっかりで落ち込んじゃって。仕事にむいてないのかな…って」
「お前にとって仕事とは自分を満足させるためだけのものなのか?気持ちが後ろ向きならばやめてしまえ。そういう人間が社にいても迷惑なだけだからな。ただ、はじめからできる人間はいない。よく考えろ」
「はい…。おっしゃるとおりですね。私、考えます。次にあったら、決意をお伝えします!」
「ふん、続くものならばやってみろ。お前の名前は?」
「はるです!」
「会社で名乗る名前が苗字ではなく下の名前か…」
男性は苦笑する。はるはあわてて苗字から言い直そうとすると男性はそれをさえぎって、おもしろがるような顔をした。
「では、私は正という。覚えておけ」
「はい、正さん、ですね!」
はるは急に立ち上がり、冷蔵庫からうさぎ柄のタッパーをとりだす。
「そうだ、これ!実家から送ってきたんですけど、お昼に食べそびれてしまって。聞くつもりじゃなかったんですけど、お誕生日って聞こえたので、苺です、お仕事片付く間につまんでください!父ちゃんの作る苺、美味しいんです!」
およそ、ビジネスマンらしい正には不似合いな、苺のつまったうさぎのタッパーを手にもたせ、はるはぺっこりとお辞儀をしてロッカーに向かう。とりのこされた正は、はるの背中に声をかけた。
「来週のこの時間、屋上で決意を聞かせてもらうぞ」
「はい!!」
離れたところから手を振るはるに、正は苦笑いをする。
手にしたうさぎ柄の容器のふたを少しめくると、中から苺の甘い香りが漂った。
宮ノ杜物産に内定をもらった研修生のはるは屋上のドア横でひざを抱えていた。伝票の入力ミスはいうまでもなく、お茶をいれればお客様の目の前でこぼし、応接室の掃除をすれば壺をを割る。先輩のたえの呆れ顔が今も目の前に浮かぶ。
「…あんたが、なんでうちの内定とれたのかわかんない」
つきはなすようなたえの声。
思い出すと涙がにじんでくる。
「春からOLになってがんばろうって思ってたけど仕事するって私に向いてないのかも」
そんな弱気な気持ちにからめとられそうになる。
暦では3月になっても春はまだ遠い。日が落ちるとさすがに寒く、体が冷え切ってしまった。もうこの時間ならロッカールームは人が少ないだろう。帰ろうかと思ったとき、屋上の扉をあけて背の高い男性がやってきた。きちっと固めた髪に眼鏡。スーツが似合う凛とした雰囲気。男性は携帯で誰かと話しているようだ。屋上を抜ける強い風が前髪を崩して揺らす。はるは目を奪われていた。
「…ああ、ああ、わかっている。すまない、デュッセルドルフからの報告待ちでな。やす田には少し遅れる…いや、主賓といわれてもだな、誕生会という年でもないしな…ああ、とにかく先ににやっていてくれ、紀夫。聡子さんにもよろしくな」
聞くともなしに聞いてしまったけど、誕生日にも残業なんて。この人にとって仕事ってそんなに大切なものなんだ…。はるはまだ研修でたいしたことしていないのにこんなにへこんでいる自分が恥ずかしくなる。
それにしても、この男性が振り返って帰ろうとしたら、間違いなく自分は聞こえている位置のドア横にひざをかかえていて、これは、いったい、どうやって退場したらいいのかな、など考えをめぐらそうとした瞬間。
「…っくしゅ!!」
はるは大きなくしゃみをこらえ切れなかった。ぎくっとして男性が振り返る。
「わ、す、すみません、聞くつもりはなかったんですけどっ!あの!私、し、失礼します!!」
あわてて言い訳をして、ドアを開けて階段を下り………るはずだった。冷え切った足がもつれて、踊り場まで転げ落ちてしまった。
「おい、大丈夫か!?」
男性が駆け寄ってくる。私、なんて鈍くさいんだろう。恥ずかしいことこの上ない。
「ふぇ、だ、い、じょぶれふ…」
ああ、なんて間の抜けた声しかでないんだろう。
「膝をすりむいてるな。立てるか?」
差し伸べられた手は暖かい。
「冷たい手だな、どのくらい屋上にいたんだ。あまり遅くまでいると警備がかかってロックされるぞ?」
男性の手がぐいと引き上げてくれて立とうとすると、足首に強烈な痛みが走る。
「捻ったか?…しかたないな、エレベーターまで運んでやる」
「いいえいえいえいえ、そこまでしていただくわけには!!」
「…歩いて帰れるのか?」
やや冷たいまなざしで見下ろされる。
「すみません、ありがとうございます」
ふわ、と足元が浮き、抱えられる。まさかの、お姫様抱っこ。はるが遠慮して体を離そうとすると、しっかりつかまっていろ、と低い声で諭された。普段いるフロアまで運ばれ、給湯室の椅子におろしてくれた。大体帰ってしまい、人がいない。男性は、給湯室の棚の救急箱からばんそうことシップをとりだして応急処置をしてくれた。
「ありがとうございます、こんなにしていただいて申し訳ないです」
「…それにしても、あんなところで何をしていた。ずいぶん長い時間いたようだが」
「研修で入ったんですけど、失敗ばっかりで落ち込んじゃって。仕事にむいてないのかな…って」
「お前にとって仕事とは自分を満足させるためだけのものなのか?気持ちが後ろ向きならばやめてしまえ。そういう人間が社にいても迷惑なだけだからな。ただ、はじめからできる人間はいない。よく考えろ」
「はい…。おっしゃるとおりですね。私、考えます。次にあったら、決意をお伝えします!」
「ふん、続くものならばやってみろ。お前の名前は?」
「はるです!」
「会社で名乗る名前が苗字ではなく下の名前か…」
男性は苦笑する。はるはあわてて苗字から言い直そうとすると男性はそれをさえぎって、おもしろがるような顔をした。
「では、私は正という。覚えておけ」
「はい、正さん、ですね!」
はるは急に立ち上がり、冷蔵庫からうさぎ柄のタッパーをとりだす。
「そうだ、これ!実家から送ってきたんですけど、お昼に食べそびれてしまって。聞くつもりじゃなかったんですけど、お誕生日って聞こえたので、苺です、お仕事片付く間につまんでください!父ちゃんの作る苺、美味しいんです!」
およそ、ビジネスマンらしい正には不似合いな、苺のつまったうさぎのタッパーを手にもたせ、はるはぺっこりとお辞儀をしてロッカーに向かう。とりのこされた正は、はるの背中に声をかけた。
「来週のこの時間、屋上で決意を聞かせてもらうぞ」
「はい!!」
離れたところから手を振るはるに、正は苦笑いをする。
手にしたうさぎ柄の容器のふたを少しめくると、中から苺の甘い香りが漂った。
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帝都の冬は音もなく、満ちた月が蒼い翳を落とすばかりだった。
はるは弐階の窓辺から庭を見下ろした。
溶け残った雪と池の氷の静寂。
宮ノ杜の屋敷でさえ冬の夜更けは人の気配が密やかになる。
はるはふといま自分がいるのは氷の下の世界で、宮ノ杜での出来事は夢物語だったのではないかという思いにとらわれた。
「はる、こんなところいにたのか」
背後から勇の声がする。
振り向く前に背中からすっぽりと包まれる。
「風邪をひくぞ?」
冷え切ったはるの耳たぶに勇の頬が温かかった。
「…勇様は温かいですね」
「どうした?」
「いいえ、何も」
「そのような声ではあるまい。何を憂えている」
「…ふと、これは夢なんじゃないかって…」
「…夢、か。ならば夢でもよかろう」
「え?」
「俺は夢のなかで氷の下にいるお前と語らっているのだ」
「ふふっ、よくわかりません」
「支那の故事に、氷の上に立って氷の下の人と話したという夢をみた人がいて占ったところ氷上は陽、下は陰のをあらわし、陽と陰が語るのは仲人を頼まれるという前兆であったという故事がある。そこから仲人のことを月下氷人というのだ」
「それでは勇様が仲人になりますよ?」
「む、そうだな。細かいことはいい、俺は氷の上から氷の下にるお前と語らうのだ。俺の対となるのは、はる、おまえしかいない。お前といると俺はいままでになかった俺を知る」
勇ははるを向き直らせ冷たい指先をとる。
「はる、ともに永遠の夢をみよう。そして俺の傍にいてくれ」
勇の唇から言葉が紡がれるたびに白い息が夜に溶ける。
指先からつたわる温もり。
こぼれた黒髪の間からはるを見つめる怜悧な目元。
他では見ることのない勇様のやさしいまなざし。
「……はい」
はるの返事も白い息となる。
夢ならば醒めずに。
現ならば、このままで。
1月27日 求婚の日
はるは弐階の窓辺から庭を見下ろした。
溶け残った雪と池の氷の静寂。
宮ノ杜の屋敷でさえ冬の夜更けは人の気配が密やかになる。
はるはふといま自分がいるのは氷の下の世界で、宮ノ杜での出来事は夢物語だったのではないかという思いにとらわれた。
「はる、こんなところいにたのか」
背後から勇の声がする。
振り向く前に背中からすっぽりと包まれる。
「風邪をひくぞ?」
冷え切ったはるの耳たぶに勇の頬が温かかった。
「…勇様は温かいですね」
「どうした?」
「いいえ、何も」
「そのような声ではあるまい。何を憂えている」
「…ふと、これは夢なんじゃないかって…」
「…夢、か。ならば夢でもよかろう」
「え?」
「俺は夢のなかで氷の下にいるお前と語らっているのだ」
「ふふっ、よくわかりません」
「支那の故事に、氷の上に立って氷の下の人と話したという夢をみた人がいて占ったところ氷上は陽、下は陰のをあらわし、陽と陰が語るのは仲人を頼まれるという前兆であったという故事がある。そこから仲人のことを月下氷人というのだ」
「それでは勇様が仲人になりますよ?」
「む、そうだな。細かいことはいい、俺は氷の上から氷の下にるお前と語らうのだ。俺の対となるのは、はる、おまえしかいない。お前といると俺はいままでになかった俺を知る」
勇ははるを向き直らせ冷たい指先をとる。
「はる、ともに永遠の夢をみよう。そして俺の傍にいてくれ」
勇の唇から言葉が紡がれるたびに白い息が夜に溶ける。
指先からつたわる温もり。
こぼれた黒髪の間からはるを見つめる怜悧な目元。
他では見ることのない勇様のやさしいまなざし。
「……はい」
はるの返事も白い息となる。
夢ならば醒めずに。
現ならば、このままで。
1月27日 求婚の日
腰をぬかしていたはるを座らせ、三人はかき氷で涼をとった。
「おもしろかったねえ!」
博が興奮した様子でかき氷をしゃくしゃくかきまぜる。
「まあまあじゃないの、どこからくるかは予測できたし」
雅は冷静に抹茶蜜のところを口に入れる。
「十分怖かったです!」
かき氷なんて食べられると思ってもいなかったはるは、すっかり機嫌をなおして黒蜜を味わっている。
「だけどさ、はる吉は思ったほど悲鳴上げてなかったよね、ずっと俺が手をつないでいたからかなあ」
博が満足そうにこう言って氷をほおばった。
「……………」
「……………」
雅とはるが顔を見合わせる。その様子に博がきょとんとする。
「はるは、怖がりすぎで歩けなくて、僕が横についてたんだけど…」
雅がぽつり、と答える。
「えっ」
博が自分の左手を見つめる。
「……………」
「……………」
この後、三人が帰りの車の後部座席で手を握り合っていたのは言うまでもない。
「おもしろかったねえ!」
博が興奮した様子でかき氷をしゃくしゃくかきまぜる。
「まあまあじゃないの、どこからくるかは予測できたし」
雅は冷静に抹茶蜜のところを口に入れる。
「十分怖かったです!」
かき氷なんて食べられると思ってもいなかったはるは、すっかり機嫌をなおして黒蜜を味わっている。
「だけどさ、はる吉は思ったほど悲鳴上げてなかったよね、ずっと俺が手をつないでいたからかなあ」
博が満足そうにこう言って氷をほおばった。
「……………」
「……………」
雅とはるが顔を見合わせる。その様子に博がきょとんとする。
「はるは、怖がりすぎで歩けなくて、僕が横についてたんだけど…」
雅がぽつり、と答える。
「えっ」
博が自分の左手を見つめる。
「……………」
「……………」
この後、三人が帰りの車の後部座席で手を握り合っていたのは言うまでもない。
お化け屋敷の前は、人で賑わっていた。小屋のなかからは時折悲鳴が聞こえたり、お芝居でよく耳にするおどろおどろしい笛の音や、太鼓のどろどろどろ…という音が響いてくる。小屋の横には、縁日のような店もいくつかあって、ちょっとしたお祭りのようだ。集まっている人は楽しげで、小屋から出てきた人たちも。怖かったねなどといいながら笑いあっている。その雰囲気に、先ほどの運転手の話にやや腰がひけていた博も気持ちをもちなおして、行く気満々である。
「はる、お前は僕の鞄をもってついてくること。その鞄なくしたら、とんでもないことになるからね。覚えておいて」
雅が宣言したことで、はるには「外でお待ちしております」すら選択肢から消えた。行くしかない。雅の綺麗な口元がにんまりと笑っている。怖がっている様子を楽しんでいるのは間違いない。
なんて悪趣味!
はるは半べそで雅をにらみつけるが、雅は一向に意に介していない。
入場待ちの行列に並んで、それほどたたないうちに、順番が回ってきた。
三人が中に入ると中は真っ暗闇で、全く前が見えない。
さわさわ…と柳の枝が揺れる音がする。
「あ、あ、あ、ああのっ、置いていかないでくださいね」
はるが震える声で懇願する。
「はる吉、遅れないでちゃんとついてきてね」
博は先頭にたっているようだ。
はるが手さぐりをしつつ前に進もうとすると、その手を誰かが捕らえた。雅の位置からだった。雅の柔らかな袖の生地がはるの腕に触れる。
「こんな面白いもの置いていくわけない」
暗闇にやや目が慣れてきたところで目を凝らすと、雅の顔がすぐ近くにあった。紅い唇が闇に妖しく映る。違う意味で心臓に悪い。
いつも苛めるのに、こういうときに手を握って安心させるなんてずるい。
そう思い続けるゆとりはなかった。先に進むと足元がぬるりとしたり、横から破れ傘が飛び出てくる。そのたびにはるは悲鳴を上げて雅の腕にしがみつく。おっかなびっくり、雅にしがみついているので、なかなか進まない。そんなはるを雅はうれしそうに見ていたことにはるは気づかない。
役者もはるの怖がり具合にさぞかしやる気をかきたてられたのだろう。前や横からお化けがでると思っていたら、潜んでいたお化けがはるの背後から飛び出てきた。あまりの唐突さにはるは悲鳴をあげてしゃがみこんでしまった。お化けは雅も怖がらせようとおそいかかるふりをする。
「ちょっと、やりすぎ」
怒気をこめて、雅がお化けを睨みつける。その気迫にお化けがたじろぐ。雅はしゃがみこんだはるの背中から抱きしめてささやいた。
「こんなの、怖がらなくてもいい。お前は僕だけ怖がってれば良いんだ」
雅ははるを立たせると、はるを背中から抱えるようにして先へ進む。雅の左手ははるを包み込むように左の肩に置かれている。はるは雅の右手を握り締めていた。「ゴミのくせに」と怒られるかな、と思うのに、雅ははるの手をしっかりと握り返してくれている。雅からふわっといい香りがする。薄い生地を通して雅の体温が伝わってくる。はるはお化け屋敷が怖いのか、雅の態度に眩暈を覚えているのかわからなかった。ただ、心臓だけは早鐘のように鳴っていた。
前の方から時折博の絶叫が聞こえる。もうすぐ出口のようだ。
「ふん、短すぎてつまんない」
雅は、ぱっとはるの手を離した。
出口の帳を抜けると蝉の声と暑気のなかに放り出された。
夏の西日が眩しかった。
-おまけ- へ
「はる、お前は僕の鞄をもってついてくること。その鞄なくしたら、とんでもないことになるからね。覚えておいて」
雅が宣言したことで、はるには「外でお待ちしております」すら選択肢から消えた。行くしかない。雅の綺麗な口元がにんまりと笑っている。怖がっている様子を楽しんでいるのは間違いない。
なんて悪趣味!
はるは半べそで雅をにらみつけるが、雅は一向に意に介していない。
入場待ちの行列に並んで、それほどたたないうちに、順番が回ってきた。
三人が中に入ると中は真っ暗闇で、全く前が見えない。
さわさわ…と柳の枝が揺れる音がする。
「あ、あ、あ、ああのっ、置いていかないでくださいね」
はるが震える声で懇願する。
「はる吉、遅れないでちゃんとついてきてね」
博は先頭にたっているようだ。
はるが手さぐりをしつつ前に進もうとすると、その手を誰かが捕らえた。雅の位置からだった。雅の柔らかな袖の生地がはるの腕に触れる。
「こんな面白いもの置いていくわけない」
暗闇にやや目が慣れてきたところで目を凝らすと、雅の顔がすぐ近くにあった。紅い唇が闇に妖しく映る。違う意味で心臓に悪い。
いつも苛めるのに、こういうときに手を握って安心させるなんてずるい。
そう思い続けるゆとりはなかった。先に進むと足元がぬるりとしたり、横から破れ傘が飛び出てくる。そのたびにはるは悲鳴を上げて雅の腕にしがみつく。おっかなびっくり、雅にしがみついているので、なかなか進まない。そんなはるを雅はうれしそうに見ていたことにはるは気づかない。
役者もはるの怖がり具合にさぞかしやる気をかきたてられたのだろう。前や横からお化けがでると思っていたら、潜んでいたお化けがはるの背後から飛び出てきた。あまりの唐突さにはるは悲鳴をあげてしゃがみこんでしまった。お化けは雅も怖がらせようとおそいかかるふりをする。
「ちょっと、やりすぎ」
怒気をこめて、雅がお化けを睨みつける。その気迫にお化けがたじろぐ。雅はしゃがみこんだはるの背中から抱きしめてささやいた。
「こんなの、怖がらなくてもいい。お前は僕だけ怖がってれば良いんだ」
雅ははるを立たせると、はるを背中から抱えるようにして先へ進む。雅の左手ははるを包み込むように左の肩に置かれている。はるは雅の右手を握り締めていた。「ゴミのくせに」と怒られるかな、と思うのに、雅ははるの手をしっかりと握り返してくれている。雅からふわっといい香りがする。薄い生地を通して雅の体温が伝わってくる。はるはお化け屋敷が怖いのか、雅の態度に眩暈を覚えているのかわからなかった。ただ、心臓だけは早鐘のように鳴っていた。
前の方から時折博の絶叫が聞こえる。もうすぐ出口のようだ。
「ふん、短すぎてつまんない」
雅は、ぱっとはるの手を離した。
出口の帳を抜けると蝉の声と暑気のなかに放り出された。
夏の西日が眩しかった。
-おまけ- へ
茂が客からもらったという切符はちょうど三枚だったので、博、雅、はるが行くことになった。千富には雅がはるをつれていくと説明して強引に段取りをつけてしまった。だが、はるは浮かない顔である。準備をするのに使用人宿舎に戻っても手が進まない。
「なにやってんのよ、早くしないと置いてかれちゃうわよ。いいなあ。私も行きたいくらいよ。ほら、あんたの分の西瓜食べてさっさと行きなさいよ」
「たえちゃん…」
「まさか、あんた、怖がりなの?」
「…私の西瓜あげるから、たえちゃん代わりに行ってくれない?」
「ぷっ…あははっ」
「なによ、そんなに笑わなくっても…」
「大丈夫よ、お化けっていっても役者がやってるだけなんだから、お芝居観にいくつもりで行ってらっしゃいよ。じゃあ、この西瓜は私が貰っておいてあげる!さあ、行った行った!」
「だって、雅様のあの邪な笑顔、絶対私が怖がりだって気づいて命令したと思うの」
「お化け屋敷の怖さをさらに堪能できそうな状況じゃない。今年きてるのは仕掛けも凝ってて結構面白いって噂よ」
たえがはるを玄関に押していく。
「お化けなんてわざわざ会いたくないもん、楽しいとか言う人の気が知れな…ちょっ、たえちゃん、待っ…」
「お待たせしましたー」
たえがはるの背中を押しながら明るい声で開けた玄関の扉の先には、博も雅も準備万端で待っていた。博からは期待に満ちた雰囲気が、雅からは底冷えのする企みがにじみ出ている。こっちのほうがよっぽど背筋が寒い。そう、待たせたのに雅が怒らない。異常事態である。
「さあ、はる吉、いっくよー!」
博はいそいそと車に乗り込む。
「じゃあ、この鞄持ってて」
雅がはるに小さな鞄を持たせ、車に押し込むようにして自分も乗り込む。
鞄なんて普段持ち歩かないくせに!そう心の中で反論しても、逆らいようがない。
予想通り、車内は大怪談大会となった。はるが耳を塞ごうとすると雅がにっこり笑ってその手を制止する。屋敷は空き地のあるはずれのほうに設営されているから道中が長い。ふとした間に博が「わっ!」と驚かすだけで声にならない悲鳴を上げるくらい、はるの肝は冷え切っている。もうすぐ着くというところで、珍しく運転手が話を始めた。
「お坊ちゃま方、お化け屋敷に行かれるのはとても楽しそうなのですが、一つだけお気をつけくださいね。何でも、この役者一座は巡業であちらこちらに行っておりまして、私の故郷にも来ていたことがありました。そのときに聞いた噂なんですが…。女役者に子供がいたそうです。ある日その子供が高熱を出した。医者にみせてやりたいけれど、巡業中は休めない。女役者は、その日の出番が終わった夜に高いお金を払って往診をお願いすることにして医者に連絡をとったんだそうです。後ろ髪惹かれる思いで、興行に向かい、出番を終えた。急いで楽屋に戻ったが、医者も間に合わず子供は息絶えていたのだそうです。以来、その一座のお化け屋敷には女の子が母親を探して客と一緒に回るという噂があるのですよ。」
「あは…は、なんか、現実味のある話で…やだなあ、気を利かせすぎだよ」
博がうわずった声で答える。
「なかなかいい演出をありがとう」
雅が飄々とした調子で答える。
「演出か噂かはお坊ちゃま方のお考え次第です」
運転手の答えにはるは声も出ない。
-参- へ
「なにやってんのよ、早くしないと置いてかれちゃうわよ。いいなあ。私も行きたいくらいよ。ほら、あんたの分の西瓜食べてさっさと行きなさいよ」
「たえちゃん…」
「まさか、あんた、怖がりなの?」
「…私の西瓜あげるから、たえちゃん代わりに行ってくれない?」
「ぷっ…あははっ」
「なによ、そんなに笑わなくっても…」
「大丈夫よ、お化けっていっても役者がやってるだけなんだから、お芝居観にいくつもりで行ってらっしゃいよ。じゃあ、この西瓜は私が貰っておいてあげる!さあ、行った行った!」
「だって、雅様のあの邪な笑顔、絶対私が怖がりだって気づいて命令したと思うの」
「お化け屋敷の怖さをさらに堪能できそうな状況じゃない。今年きてるのは仕掛けも凝ってて結構面白いって噂よ」
たえがはるを玄関に押していく。
「お化けなんてわざわざ会いたくないもん、楽しいとか言う人の気が知れな…ちょっ、たえちゃん、待っ…」
「お待たせしましたー」
たえがはるの背中を押しながら明るい声で開けた玄関の扉の先には、博も雅も準備万端で待っていた。博からは期待に満ちた雰囲気が、雅からは底冷えのする企みがにじみ出ている。こっちのほうがよっぽど背筋が寒い。そう、待たせたのに雅が怒らない。異常事態である。
「さあ、はる吉、いっくよー!」
博はいそいそと車に乗り込む。
「じゃあ、この鞄持ってて」
雅がはるに小さな鞄を持たせ、車に押し込むようにして自分も乗り込む。
鞄なんて普段持ち歩かないくせに!そう心の中で反論しても、逆らいようがない。
予想通り、車内は大怪談大会となった。はるが耳を塞ごうとすると雅がにっこり笑ってその手を制止する。屋敷は空き地のあるはずれのほうに設営されているから道中が長い。ふとした間に博が「わっ!」と驚かすだけで声にならない悲鳴を上げるくらい、はるの肝は冷え切っている。もうすぐ着くというところで、珍しく運転手が話を始めた。
「お坊ちゃま方、お化け屋敷に行かれるのはとても楽しそうなのですが、一つだけお気をつけくださいね。何でも、この役者一座は巡業であちらこちらに行っておりまして、私の故郷にも来ていたことがありました。そのときに聞いた噂なんですが…。女役者に子供がいたそうです。ある日その子供が高熱を出した。医者にみせてやりたいけれど、巡業中は休めない。女役者は、その日の出番が終わった夜に高いお金を払って往診をお願いすることにして医者に連絡をとったんだそうです。後ろ髪惹かれる思いで、興行に向かい、出番を終えた。急いで楽屋に戻ったが、医者も間に合わず子供は息絶えていたのだそうです。以来、その一座のお化け屋敷には女の子が母親を探して客と一緒に回るという噂があるのですよ。」
「あは…は、なんか、現実味のある話で…やだなあ、気を利かせすぎだよ」
博がうわずった声で答える。
「なかなかいい演出をありがとう」
雅が飄々とした調子で答える。
「演出か噂かはお坊ちゃま方のお考え次第です」
運転手の答えにはるは声も出ない。
-参- へ